原発のない社会をめざして 2015年07月

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東電元会長ら強制起訴へ=旧経営陣3人に起訴議決―福島原発事故「回避できた」

【東電元会長ら強制起訴へ=旧経営陣3人に起訴議決―福島原発事故「回避できた」】
YAHOO NEWS 2015年7月31日

2011年の東京電力福島第1原発事故をめぐり、業務上過失致死傷容疑で告訴・告発され、2回にわたり不起訴処分となった勝俣恒久元会長(75)ら東電旧経営陣3人について、東京第5検察審査会は31日までに再審査し、「起訴すべきだ」と議決した。

1回目の審査と同じ結論で、3人は今後、検察官役の指定弁護士により強制起訴される。議決は17日付。他に強制起訴されるのは、武藤栄(65)、武黒一郎(69)両元副社長。原発事故の責任が初めて刑事司法の場で裁かれることになる。

検察審は議決で、「原発事業者は『万が一にも』『まれではあるが』発生する津波による災害にも備えなければならない」と指摘。勝俣元会長らは地震により最大15.7メートルの津波が同原発を襲うとの試算結果の報告を受けていたと強く推認されると述べ、「(主要機器が浸水する)10メートルを大きく超える津波が発生し、過酷事故が起きる具体的な予見可能性があった」と認定した。

その上で、「適切な津波対策を検討している間だけでも、運転停止を含めたあらゆる措置を講じるべきだった」とし、非常用電源設備の高台移設など浸水を前提とした対策も検討できたことから、「事故は十分回避できた」と判断した。

運転停止は困難との主張については、「ひとたび重大事故が起きると、放射性物質の大量排出により、人類の種の保存にも悪影響を及ぼしかねないという事柄の重大さを忘れた誤った考えだ」と非難した。

過失と被害との因果関係は、緊急作業中に負傷した東電関係者らと、避難中に死亡した双葉病院(福島県大熊町)の患者についてのみ認めた。

原発事故をめぐっては、被災者らでつくる福島原発告訴団などが当時の東電経営陣らを告訴・告発。地検は13年9月、政府関係者を含む42人全員を不起訴とした。告訴団は処分を不服として、検察審に勝俣元会長ら6人について審査を申し立て、検察審は14年7月、元会長ら3人を起訴相当と議決。地検は今年1月に再び不起訴とし、検察審が再審査していた。

東京電力の話 今回の審査結果は、検察官の処分に対する判断であり、当社としてはコメントを控える。 

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「集団的自衛権」が、安倍首相の命取りになる

【「集団的自衛権」が、安倍首相の命取りになる】
強引に押し進めるほど、国民は引いていく
東洋経済ONLINE 2015年7月25日

安倍晋三首相自身が、集団的自衛権行使を日本に定着させる上での最大の障害になるかもしれない。なぜならば、日本人の多くが、首相の集団的自衛権擁護を彼の超ナショナリスト的見解と切り離すことができないからだ。

この問題は、多くの人が報道の自由への攻撃ととらえていることとも切り離せない。自民党議員が新聞社の広告収入を枯渇させ「懲らしめる」よう要求した一件は自民党の体質を多くの人に想起させた。

■安倍首相を信頼したワシントン

安全保障で日本の役割を拡大することには根強い抵抗がある。それにしても、この件で国民と対話を始めるには、もっとナショナリスト色が弱い首相のほうが国民の信頼を得られたのではないだろうか。

首相は日本国民の感情に注意を払わぬまま、4月に米ワシントンで、これら法案を7月に国会で成立させると約束した。今やそれは不可能になっている。ワシントンは首相の力を非常に信頼していたので、日本の国会が審議する前であるにもかかわらず、武力攻撃事態における日米協力のための新しい共同指針を発表することに合意した。

学者の間では首相の法案が違憲であるというのがほぼ一致した見解であるが、日本国民の意見もこの見解と一致する。

日本国民は首相の政治の進め方に疑問を呈している。彼は国会を9月27日まで延長した。そうすれば参議院で承認を得られなかった場合、衆議院で3分の2の賛成票を得れば法案を強引に通すことができるだろうというもくろみがある。こうした中、首相に近い議員が報道を脅す事態が起き、当初彼はそれを擁護したが、後にその姿勢を変えざるをえなくなった。

■強引さは命取りになる

強引な策略を使って法案を可決すると、合法性が疑わしくなるだろう。今後、特に自衛隊員が死亡するような大きな危険がある場合、実際に集団的自衛権を行使するのは難しくなりかねない。

首相は、この不人気な安全保障法案を通すため、国会議員にごり押しすることに政治生命を懸けようとしている。これにより、経済改革で支持の得られにくい方策を通すために同様の圧力をかけるのが難しくなるだろう。

首相の人気が非常に高かったときは、自民党議員が彼に反対を唱えるのは政治的自殺行為であった。だが、首相の支持率が低下し続けるなら、この陣笠議員たちへの支配力を失うだろう。

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新基準で初めて再稼働の川内原発に残る疑問

【新基準で初めて再稼働の川内原発に残る疑問】
「合格=安全ではない」と規制委員長も明言
東洋経済ONLINE 2015年7月25日

東日本大震災後、順次稼働を停止、現在は一基たりとも動いていない原子力発電所が、ついに稼働する。

7月10日、鹿児島県にある川内(せんだい)原発1号機の原子炉に、九州電力が核燃料を搬入し終えた。使用前検査が順調に進めば、8月中旬に制御棒を引き抜いて原子炉を起動する。2013年7月に策定された新規制基準の下では、「全国初の再稼働」となる。九電は同2号機も9月下旬の起動を目指す。両基で月間150億円程度の収益改善効果を見込み、5期ぶりの黒字化にも期待を寄せている。

■現在、合格は5基

2012年9月に発足した原子力規制委員会にとっても、川内原発は、新基準で最初に審査を終了した原発だ。田中俊一委員長は、「新基準は以前より要求レベルが高いので、事業者も四苦八苦しており、ずいぶん時間がかかった」としつつ、今後は経験の蓄積により短縮できると語る。

規制委の新規制基準適合性審査は三つの段階に分かれている。原子炉の基本設計を審査する「原子炉設置変更許可」と、詳細設計を審査する「工事計画認可」、運転管理について審査する「保安規定変更認可」である。最も重視されるのが原子炉設置変更許可で、これを得れば“実質合格”と見なされる。

現状、実質合格となったのは川内原発と関西電力の高浜原発3、4号機、そして7月15日に許可された四国電力の伊方原発3号機だ。伊方は残りの認可手続きなどを経て、早ければ今年度中に再稼働する可能性がある。

一方、高浜3、4号機は福井地方裁判所で運転差し止めの仮処分を受け、関電が想定していた今年11月の再稼働は困難になった。ほかの審査中原発の再稼働は、あっても2016年度以降の見込みだ。

ただ、審査過程では、多くの疑問点も浮かび上がった。

肝心の安全性について規制委は「セシウム137の放出量が(福島事故の100分の1に当たる)100兆ベクレルを超えるような事故の発生頻度を、1原子炉当たり100万年に1回以下にするという安全目標を、川内原発は十分満たしている」と強調する。

しかし、この安全目標は、テロ攻撃などのケースを除いている。そもそも、新規制基準として、定められたものでもない。これを安全性判断の根拠といえるのか。

田中委員長は「川内原発は新規制基準に適合したもので、安全と認めたわけではない」と断言する。これは「原発にリスクゼロはない。安全と言えば、新たな安全神話につながる」という限界を示すと同時に、福島事故を踏まえた自戒でもある。

■新基準そのものも疑問あり

「世界で最も厳しいレベル」(規制委)という新規制基準に関しても疑問が残る。

たとえば、火山に囲まれている川内原発の審査で、焦点とされた火山影響評価。規制委は原発に影響を及ぼす巨大噴火の可能性は十分に小さく、監視によって噴火の前兆も把握できると結論づけた。

だが、たとえ前兆をつかめたとしても、噴火時期も規模もわからないというのが学界の専門家の見方だ。審査では火山の専門家は一人も意見を聞かれていない。規制委審査は科学的といえず、審査基準の火山影響評価ガイドの見直しを求める声も強い。

また、自治体が策定する防災避難計画は、審査の対象になっていない。米国では、連邦緊急事態管理庁(FEMA)という専門機関が避難計画の実効性を審査し、同国の原子力規制委員会もプロセスに深く関与している。

2014年に規制委委員を退任した大島賢三氏は、「日本版FEMAのような組織を作り、プロが関与することが必要。今やっても遅くない」と提言した。が、いまだ実現の動きはない。

田中委員長自身、かねて「規制基準と防災は車の両輪」と強調してきた。ただ、現在の法体系上、避難計画の実効性を評価する立場にない、と繰り返している。それでも新規制基準は世界最高レベルと訴えるのは妥当なのか。

■ いまだ再稼働反対が過半数

地元合意の対象を都道府県と立地市町村に限定している現状など、再稼働に至る過程についてはほかにも問題点が指摘されている。だが、今の自民党政権に、見直しに取り組む姿勢は見受けられない。

それどころか今春の電源構成の議論のように、原発依存度を高めに維持するため、規制委自身がまだ一基も許可していない老朽原発の運転延長を、長期目標に織り込む始末だ。これでは世論で再稼働反対が過半を占める現状も仕方ない。原発は安全性の追求が大前提ということを、あらためて問う必要がある。

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東芝“粉飾決算”中心人物のあだ名は「原発野郎」! マスコミが報道しない原発ビジネス、安倍政権との関係

【東芝“粉飾決算”中心人物のあだ名は「原発野郎」! マスコミが報道しない原発ビジネス、安倍政権との関係】
LITERA 2015年7月22日

「残り3日で120億円の利益を改善しろ」(佐々木則夫社長 2012年当時)
「テレビはなんだ、この体たらく。黒字にできないのならやめる」(田中久雄社長 2014年当時)
 
7月21日、東芝は粉飾決算を調査した第三者委員会報告書の全文を公表した。同報告書では過去7年間で1500億円を超える利益の水増しの事実に加え、予算達成のプレッシャー、「社長月例」と呼ばれる会議でのつるし上げなどのパワーハラスメントのもと、経営トップが関与して“不適切会計”が行われたと分析。これを受けて、田中久雄社長や前社長の佐々木則夫副会長、その前の社長の西田厚聡相談役ら直近3代の社長経験者を含む経営陣9人が引責辞任することが発表された。

新聞大手3紙の22日朝刊も、大きくこの問題を取り上げ、企業統治の実効性を高めるよう提言した。

しかし、実はこの問題に対するマスコミ各紙の動きは鈍かった。4月にSESC(証券取引等監視委員会)への告発があり、5月には各社ともかなりの証拠をつかんでいたにもかかわらず、散発的に報道するだけで、通常の企業不祥事のような追及は一切することがなかった。

さらに、第三者委員会が利益水増しを確定した現段階でもまだ「粉飾決算」という言葉を使わずに「不適切会計」というあいまいな言葉を用いている。3月22日の各社社説や解説でも、「自浄作用が働かぬ企業風土に問題」(日本経済新聞識者コメント)、「実効ある企業統治を」(朝日新聞社説)、「ルール軽視の体質を改める必要がある」(読売新聞社説)といった文字が踊り、各紙とも、今回の東芝の不祥事を「企業統治」の問題に落着させるかのようなトーンに終始している。

マスコミのこうした弱腰はもちろん、東芝が大スポンサーだからだ。東芝はグループ全体で年間329億円もの宣伝広告費を計上しており、これは日本の企業ではかなり上位に入る。それに配慮して、自主規制しているということらしい。

「これからSESCが検察に告発して刑事事件になれば、もっと厳しい追及をすると思いますが、現段階ではこれが限界ということです」(大手紙・経済部記者)

しかも、マスコミは今回、もうひとつ隠していることがある。今回の東芝の“不適切会計”は「事業の選択と集中」を行った「非常識経営」の異端児・西田厚聡(パソコン事業出身)が05年に社長に就任したことがきっかけとされている。08年9月のリーマン・ショックを発端とする事業環境の急激な悪化に対し、「死に物狂いでやってくれ」「事業を死守したいなら、最低100億円やること」(09年1月の会議)と叱咤するとともに、アメリカ流の当期利益至上主義を推し進めた。

その結果、「とにかくこの会計期間に利益を達成しなければならないという当期の利益至上主義」(第三者委員会・上田広一委員長)が企業風土となり、社内では会計操作が横行したという。

しかし、実際に粉飾決算をエスカレートさせ、巨大な規模にしたのは、その後の社長職をひきついだ佐々木則夫だった。11年から12年は“不適切会計”が幅広く行われた。決算期末までの3日で利益120億円の利益改善を迫り、13年3月期にはパソコンなどの部品取引で約310億円の利益を過大計上されたほどだ。そして、この佐々木前社長の行為は11年の東日本大震災以降の原発事業の不振をごまかすためだったと見られているのだ。

東芝の事業の二大柱は、半導体と原子力発電なのだが、佐々木前社長は原子力事業一筋でのしあがってきた人物。たとえば、東芝は06年、相場の3倍以上の約6000億円を用意し、原発製造大手である米ウエスティングハウス社(WH社)を買収したが、その立役者が佐々木前社長だった。

「週刊ポスト」(小学館)7月31日号「東芝『骨肉の人事抗争』20年全内幕」は、「佐々木さんは社内で『原発野郎』と揶揄されるほど原子力以外には詳しくないとの評が多く、語学も苦手で海外出張にはほとんど行かなかった」という同社の中堅幹部のコメントを載せている。

09年の社長就任後は「原子力事業で売上高1兆円」という目標を掲げ原発ビジネスに邁進するも、11年の東日本大震災、東京電力福島第一原発事故発生。しかし、その直後でも「日経ビジネス」(日経BP社)11年8月29日号「編集長インタビュー 原発の世界需要揺るがず」では、「(原発市場は)縮小というより、増えるのではないですか」「原発事業がなくなるとは思っていません。当社の原発関連売り上げの7割は海外向けです。国内でも、原発のメンテナンス売り上げが減って、3割のうち3分の1がなくなるとしても、海外も含めた全体で見れば10%減少にもならない」と海外展開を続けることを明らかにした。

12年、政権交代で安倍晋三=自民党政権が誕生すると、佐々木氏は産業競争力会議の民間議員や経済再生諮問会議の民間委員など政府の役職を率先して引き受けるようになる。13年、安倍首相がUAE、トルコなどを訪問、原子力協定を結んだ際には同行し、東芝の原発を売り込んだほどだ。

13年6月のアベノミクス第3の矢である成長戦略「日本再興戦略」のなかに「インフラシステム輸出」も加わったが、この成長戦略には佐々木が大きく関わった。その後も佐々木は法人税率引き下げの論調をリードするなど安倍政権下での“財界総理”気取りで政界に影響を及ぼしていた。

しかし、世界的に原発の新設にブレーキがかかっているなか、「原子力事業で売上高1兆円」という目標どころか、現状維持も難しくなっているのが実情だ。
「週刊金曜日」(金曜日)7月10日号「東芝不正経理の影に原発事業の不振」では、〈原子力大国フランスを支える原発メーカーのアレバも(略)14年の決算では、過去最高となる48億ユーロ(約6700億円)の損失を計上していた、仏政府はアレバ本体に公的資金を資本注入するほか、新興勢力・中国からの資本参加も取りざたされている(略)日本の原発産業関係者は(略)「東芝はアレバと同じように『原発投資』への引っ込みがつかなくなり、結果として首がまわらなくなった、会社がつぶれてもおかしくないのに、まだ気づいていない」〉と指摘する。


さらに、「週刊朝日」(朝日新聞出版)7月31日号「東芝を食い潰した日米の原発利権」では約6000億円を用意して買収したWH社が不良資産化している現状を明らかにしている。

〈東芝は買収によって、原発ビジネスが約2000億円から15年には約7000億円、20年には約9000億円に拡大すると計画していた。
「06年に経産省が「原子力計画」を発表し、既存原発の60年間運転、30年以降も原発依存度30~40%を維持、核燃料サイクルの推進、原発輸出を官民一体で行うとぶち上げました。東芝はその先陣を切ってコケた。計画を当時まとめたのが現在、安倍首相の秘書官として出向している経産官僚らです」(元政府高官)〉


その不良資産総額はWH社ののれん代4000億円と、「赤字が続くと計上が認められなくなる」繰り延べ税金資産の取り崩し額最大5000億円も含めれば、合計9000億円となり、新たな巨額損失になりかねないのだ。

「(原発産業によって)バラ色だと思っていた未来が、イバラの道に見えてきた」(毎日新聞朝刊)と東芝幹部は語るが、世界的に斜陽化しかねない原発ビジネスに突っ込んだ経営陣の経営判断のミスを、ウソにウソを塗り固めてごまかそうとしてきた。これが今回の巨額粉飾の本質なのだ。

今回の不正発覚の端緒になったSESCへの内部通報も、原子力発電の社会インフラ関連事業会計に不正行為があるという内容だった。

それにしても、産業競争力会議の民間議員や経済再生諮問会議の民間委員など政府の役職を務め(今回すべての公職も辞任)、アベノミクス第3の矢にも大きく関わった人物が、企業統治も出来ないどころか、パワハラと粉飾決算の“原発野郎”とは、安倍政権の底の浅さをまたも明らかにする形になったではないか。

しかし、朝日、読売、日経の大手3紙も産経も、東芝と原発の関係について触れようとはしない。触れたのは毎日新聞と東京新聞だけだ。東芝“不適切会計”報道は原発業界と安倍政権、さらには巨額の宣伝広告費問題にも飛び火しかねない。今回の事態を早期収束させたいのは、東芝だけでなく、マスコミも同様なのかもしれない。

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動画 「6分でわかる安保法制」

これはとても良くできた動画です。賛成の方も反対の方もぜひご覧くださいませ。合掌



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安保関連法案:国会前で数万人抗議 若者の姿…各地に波及

【安保関連法案:国会前で数万人抗議 若者の姿…各地に波及】
毎日新聞 2015年7月15日

「残念ながら、国民の理解はない」。安全保障関連法案は15日、安倍晋三首相が自らそう認めた直後に強行採決された。そんな政治に怒り、不信感を募らせて国会を取り巻いた数万人の市民たちの中に、政治活動とは無縁そうな若者たちが目立つ。「闘いはこれからだ」。彼らの呼びかけは同世代を動かし、各地に波及している。



若者たちが組織したグループの名は「自由と民主主義のための学生緊急行動」。通称「SEALDs(シールズ)」だ。

多数の学生が大学の枠を超え、ツイッターやフェイスブックを介し、「安保法制反対」という一点でゆるやかにつながっている。呼びかけがどのように広がり、何人が共感しているのか誰も正確に知らない。それでも、集まる若者は数千人規模に膨らんでいる。今年5月3日の憲法記念日に生まれた。

中心メンバー約10人の多くは、明治学院や立教、上智などミッション系の私大学生。集まって話し合うこともあるが、集まれなくても無料通信アプリ「LINE(ライン)」などで手際よく物事を決めていく。

その一人、横浜市の明治学院大4年、林田光弘さん(23)は国会前で抗議の声を上げ続けてきた。「福島の原発事故がきっかけで、政府を疑わざるを得ないということに僕らの世代は気づいた」

長崎市出身の被爆3世だ。70年前の8月、父方の祖父・武男さん(2010年に死去)が、勤労動員で原爆投下から間もない市の中心部に入り被爆した。祖父は口数の少ない性格だったが、孫の林田さんがせがむと、遺体の片付けにあたったことなどを話してくれることもあった。

長崎市内の小中高校で平和学習を重ね、高校3年時には「高校生平和大使」として、国連の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて米ニューヨークを訪問。原爆で顔にケロイドが残り、後に語り部となった被爆者の生涯を紙芝居で上演し、核兵器の非人道性を訴えた。

もともと体が弱く、被爆3世として漠とした不安を抱え生きてきた分、平和学習に打ち込んだ。本格的に核軍縮の問題を学ぼうと、著名な教授のいる大学に11年春進学する。

上京すると、東日本大震災の直後でまちは混乱していた。「被ばく」や「放射線」という言葉が飛びかい、心がざわついた。「自分の中で、核兵器は悪だった。でも、原発については特に考えていなかったから」

翌12年夏、東京・永田町の官邸前に原発再稼働に反対する市民があふれた。「政府は被爆2世や3世の追跡調査に及び腰だった。福島でも同じことを繰り返すのではないか」。官邸前に足を運び「政府の言うことをうのみにしてはいけない」と考えるようになった。

今回の安保法制の底に「より強く、大きくなれば平和が保てる」という抑止力の発想があると感じる。「抑止力を求める軍拡競争で大量の核兵器が生まれた。被爆国の日本が今なぜ、昔の発想にとらわれているのか」

メンバーたちは各自の得意分野を生かし、ビラやネット上のサイトの制作なら誰、講演会や勉強会の司会なら誰、と役割分担している。林田さんは集会やイベントの企画に取り組んできた。「闘いはこれから。絶対認められません」

「シールズ」への共感は学生たちを中心に全国で広がり続け、関西各地でも抗議集会が開かれている。

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「遥かなるクリスマス」 さだまさし

政府・自民党公明党が集団的自衛権を強硬採決しようとしている今…だいぶ時期はずれですが、さだまさしさんの「遥かなるクリスマス」 という曲をお聴きください。合掌



「遥かなるクリスマス」 さだまさし

メリークリスマス
二人のためのワインと それから君への贈り物を抱えて駅を出る
メリークリスマス
外は雪模様 気づけば ふと見知らぬ誰かが僕にそっと声をかけて来る
メリークリスマス
振り向けば小さな箱を差し出す 助け合いの子供達に僕はポケットを探る
メリークリスマス
携帯電話で君の弾む声に もうすぐ帰るよと告げた時のこと
メリークリスマス
ふいに誰かの悲鳴が聞こえた 正面のスクリーン激しい爆撃を繰り返すニュース
メリークリスマス
僕には何にも関係ないことだと 言い聞かせながら無言でひたすらに歩いた

メリークリスマス
僕達のための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている
メリークリスマス
誰もが正義を口にするけど 二束三文の正義 十把一絡げの幸せ つまり嘘
メリークリスマス
僕はぬくぬくと君への 愛だけで本当は十分なんだけど
メリークリスマス
本当は気づいている今のこの時も 誰かがどこかで静かに命を奪われている
メリークリスマス
独裁者が倒されたというのに 民衆が傷つけ合う平和とは一体何だろう
メリークリスマス
人々はもう気づいている 裸の王様に大人達は本当が言えない

メリークリスマス
いつの間にか大人達と子供達とは 平和な戦場で殺しあうようになってしまった
メリークリスマス
尤も僕らはやがて自分の子供を 戦場に送る契約をしたのだから同じこと
メリークリスマス
子供の瞳は大人の胸の底を 探りながらじわりじわりと壊れていく
メリークリスマス
本当に君を愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ
メリークリスマス
その隣で自分の幸せばかりを 求め続けている卑劣な僕がいる
メリークリスマス
世界中を幸せにと願う君と いえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる

メリークリスマス
僕は胸に抱えた小さな 君への贈り物について深く深く考えている
メリークリスマス
僕は君の子供を戦場へ送るために この贈り物を抱えているのだろうか
メリークリスマス
本当に愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ
メリークリスマス
本当に本当に君を愛している 永遠に永遠に君が幸せであれと叫ぶ
メリークリスマス
凍てつく涙を拭いながら
メリークリスマス
生きてくれ生きてくれ生きてくれと叫ぶ
メリークリスマス
雪の中で雪の中で雪の中で
メリークリスマス
白い白い白い雪の中で

メリークリスマス
メリークリスマス

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川内原発 なぜ説明できないの?

【川内原発 なぜ説明できないの?】
東京新聞 2015年7月10日

避難計画のあいまいさ、予知不能の火山…。多くの不安や疑問を置き去りにしたままで、九州電力川内原発(鹿児島県)は再稼働へ突き進む。安全に自信があるなら、なぜ、説明に応じないのか。聞く耳を持たぬとは、このことか。時代劇でも見るようだ。

今年三月、鹿児島県内の百近い市民団体で組織した実行委員会が、約十万人の署名を携え、福岡市内の九州電力本店に、対話を求めて訪れた。

住民側が要望したのは、次の三点だった。

(1)3・11後に国の指針で避難計画の策定を義務付けられた川内原発三十キロ圏内の九自治体で、住民説明会を開催すること(2)再稼働について、九自治体の正式な議決を求めること(3)住民の要望があれば、三十キロ圏外でも、説明会を開催すること。不安に答えるに、無理な要求とは思えない。

「頭から再稼働反対を訴えるつもりはない。対話を求めて落としどころを探りたい」という住民側の姿勢にもうなずける。

しかしこれらは広報担当の段階で、ことごとく拒否された。

屋久島や種子島など県内六市町の議会が求める住民説明会の開催にも、九電は応じていない。

電力側がよって立つのは、3・11後の新規制基準に適合したという原子力規制委員会の判断だ。

「あくまでも規制委の基準に沿って、再稼働を進めていく」と、人ごとのように繰り返すだけの政府が、後ろ盾になっている。

ところが当の規制委は「安全を保証するものではない」とこちらも繰り返す。万一の責任は誰が取ってくれるのか。

福祉の現場や専門家などからも、避難計画の不備や周りに多い火山対策の甘さを指摘する声が引きも切らない。ヨウ素剤配布や避難計画が必要になるものは、そもそも動かすべきではない。

遠くない口永良部島の突然の噴火で、住民の不安は増した。

広範囲の住民がより詳細な説明を求めるのは当然で、九電にはその責任があるはずだ。

火山対策について、巨大噴火の兆候がもしあれば、原子炉を停止して核燃料を運び出せるという。

川内原発1号機では核燃料の装填(そうてん)作業が完了した。二十四時間体制で三日がかりの作業になった。

噴火の予測はかなうのか。核燃料を運び出す余裕はあるか…。素朴な疑問に十分な答えが出せない限り、再稼働は許されない。

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原発と一緒…新国立競技場を了承した「有識者」の“頭の中”

【原発と一緒…新国立競技場を了承した「有識者」の“頭の中”】
日刊ゲンダイ 2015年7月9日

「巨額の費用がかかる新国立競技場は、原発問題と似ていますね」
こう語るのはスポーツライターの工藤健策氏だ。

整備費2520億円、完成後の50年間で必要な大規模改修費も昨年試算の約656億円から約1046億円に。まさに金食い虫の競技場は「有識者」と称されるメンバーが実施設計を了承し、2019年5月の完成へ向けて、今年10月に着工されることになった。

会議のメンバーでもある遠藤利明五輪相は、「建物の特殊性という意味で費用が高いと言われれば確かに高いと思うが、ある程度はやむを得ない」と言ったが、冗談じゃない。前出の工藤氏がこう語る。

「そもそも有識者会議なんてものは、事業を進めたい側が『専門家に意見を聞きました』というアリバイづくりに過ぎない。NOと言う人は初めからメンバーにしません。しかも、東京五輪組織委員会の森喜朗会長(77)を筆頭に、ほとんどが60代後半から70代。40年先、50年先はおそらくこの世にいない。税金をジャブジャブ使って建設される新国立競技場がどうなろうと責任は取れない。そういう人たちが納税者無視で2500億円以上の箱ものをつくることを了承するなんてバカな話はない。原発再稼働を推進する政治家も同じです。放射性廃棄物、つまり核のゴミ処理問題も解決していないのに、原発を動かせという。核のゴミで子供たちがどうなろうと知ったこっちゃないのです」

日本はすでに1000兆円を超す債務国。老い先短い人たちは、そんなことは頭にないのだろう。

「国民だって反対の声をあげないのは、箱モノ行政への慣れというか、感覚が麻痺しているのではないか」(工藤氏)

都会のど真ん中にできる屋根付き競技場は子供たちに夢を与えるどころか、借金大国の象徴として語り継がれることになる。

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原発が亡びても地方は生き残る

【原発が亡びても地方は生き残る】
朝日新聞 2015年7月1日

■村上達也(「脱原発をめざす首長会議」世話人/元東海村長)
■「がんばろう!」でよかったのか?

まだ記憶に新しいが、東日本大震災、福島第一原発事故の後、この国は「がんばろう日本」「がんばろう東北」「がんばろう福島」などなど、「がんばろう」一色であった。そのために事態の冷静な解明、認識が阻害されることはなかっただろうか。「個人」は「全体」に包摂され、我慢と忍従を強いられてきた面があるのではなかろうか。福島第一原発事故の被災地域で言えば、「ふるさと帰還」の声の前に沈黙を強いられた人も多かっただろう。

このような国民的マインドは、かつてこの国にもあった――デジャヴュウ(既視観)だ。「聖戦」「大東亜共栄圏」、そして「一億総玉砕」などなど。特に「聖戦」というスローガンには黙せざるを得なかったのではないか。

確かに東日本大震災による被害は人知の予想を超えるものがあった。しかし4枚のプレートの交差によってでき上がっているこの国では地震、津波による災害はそれこそデジャヴュウであって、なにも貞観地震を引き合いにして「1000年に1度」などと言い逃れできるものではなかった。災害が異常に大きくなったことに人為的原因がなかったはずはない。

特に原発事故においてをや。それは人類史上でチェルノブイリ原発事故に次ぐ放射能汚染による大規模な自然環境破壊、ありとあらゆる生命への危害であった。経済発展のため、エネルギー確保のためと、言い繕って問題をそらしてはならない。日本人全体への警告、問い掛けだ。それを日本人ははっきり認識すべきだ。

なかんずく、原発事故によってそれぞれの未来に関わる生存基盤であるふるさとを失ってしまった人たちに対し、「がんばろう」、「復興」の掛け声をかけるのみでよかったのか。これでは70年前の敗戦と同じでないか。塗炭の苦しみをなめた無謀な戦争について、特に中国とアジア諸国を侵略し、わが国を上回る多くの命を奪った戦争をしでかした罪への反省もなく総括もしないで「一億総懺悔(ざんげ)だ」、「さあ戦後復興だ」、「経済成長だ」の掛け声で、いつしかそれは「がんばろう」という単純な言葉に変わってしまった。それこそがいまだに中国、韓国などとうまくいかない原因であり、ヨーロッパにおけるドイツとアジアにおける日本の分かれ道であった。

■推進VS.反対は二項対立なのか? 弁証法の話ではないか

話の都合上あえて言うが、ポリタス編集部からの寄稿依頼文の中で、気になる文章があった。以下引用する。

東京電力福島第一原発事故から4年が経過しようとしていますが、いまだに原発については推進と反対の二項対立が続いています。この二項対立を乗り越えるには、目下の再稼働の可否を論じるのではなく、もう少し長期的な視点に立ったビジョンの提示が必要と考えます。

福島第一原発事故の後、脱原発、反原発の主張に対し、原子力推進側からは「二項対立の感情論だ」という批判を大分耳にした。特に御用学者などは中立性、客観性を装って言っていた。「がんばろう」の唱和と同じく、特殊日本的「和」に訴えて事故後の状況下での原発論議を封じようとしたのだろう。

土台、「反原発」か「原発推進」かの対立は二項対立といえる筋のものだろうか。特に、福島第一原発事故の後、その対立は弁証法の話に変わったのではないか。原子力エネルギー開発それ自体に内在していた矛盾が事故、災害で白日の下に晒(さら)された、その自己矛盾を止揚するのかどうかがことの本質だろう。

原発についての推進か反対かの議論は福島第一原発事故以前は立地地域を除いてなされたことがほとんどなかった。しかし、いつの間にか国民が知らないところで国策とされてきた。唯一政府が組織的に取り組んだのが、民主党政権下で事故後の国民意識調査と討論型世論調査であった。そこでは時期はともかく、「原発ゼロヘの道」へという国民の意思は示された。それを受けて時の政権が確定したのが、2030年代に原発ゼロの道であった。

ドイツのメルケル政権とは比較にならないが、弁証法的思考能力を欠く日本社会といえども、ここまでは曲がりなりにも弁証法的な結論を出した。この結論を引っくり返し、原発政策を福島第一原発事故以前に先祖返りさせたのが自民党安倍政権と電力・原子力業界である。現在の安倍政権はひたすら原発再稼働と原発の輸出に突き進んでいる、はたまた原発新増設の本心も見え見えである。全く国民の意思には歯牙(しが)にもかけない国権主義的姿勢である。

こういう日本社会にあって二項対立と言って議論を制限し、封じてはならない。原発に関する議論は私たちの現在の生活の在り様、子供たちの将来に関わる問題なのだから黙することなく大いに語っていく責任が私たちにはある。元々論理的思考など苦手な日本人だ、二項対立と非難されようが問題ではない。

■原発権力の復活と焼け太り

昨年4月政府は新たなエネルギー基本計画を策定し原子力を「重要なベースロード電源」と位置づけ、政府が先頭に立って原発再稼働の音頭をとっている。これは周辺住民をはじめとする国民世論を無視した強権的手法と言わざるを得ない。

政府の意向を忖度(そんたく)して原子力規制委員会は昨夏の川内原発に次いで今春早々福井県高浜原発3、4号機に審査合格証を出した。哲学者・故久野収さんは日本人の特質として「頂点同調主義」と言っていたが、政権交代によって原子力規制庁は早くも独立機関としての性格が危うくなってきている。作家の辺見庸さんも言っていた――日本は「全民的協調主義」「あらかじめのファシズム」の国だと。こういう国でアメリカのNRC(原子力規制委員会)のような機関を望むのはしょせん夢物語か。

せめてもの救いは田中規制委員長の孤軍奮闘だ。科学者の良心から「原発は安全だとは言わない。審査は安全を証明するものでない」と言っていることである。そこは、政府や電力会社が審査合格をもって安全宣言しているのとは大きな違いである。無責任と批判されているが、本来規制委員長であっても原発は安全と断言できるものでないと真摯(しんし)に語っている。原発をとるか、同時にそのリスクをとるかを国民一人ひとりが自分で考えろと言っているのである。私たち国民が決めねばならないことである。

政府や電力業界は出力が小さいものに限ってだが、40年を超えた原発数機の廃炉の意向を示している。しかしこれもお茶濁しでしかない。その一方で「リプレース」と称し、大型原発の建設を画策しているのだからとんでもない話だ。焼け太りをもくろんでいるのだ。

福島第一原発事故被災者、避難者の救済はおろか、事故の収束もおぼつかない中で、原発新設の計画を練っているとは、何というおぞましい国だろう。泉田新潟県知事が言うように、福島第一原発事故の真の検証も総括もできてないと私も思う。その中で政府も電力業界もフクシマ以前への全面回帰を画策している。国民はだまされてはならない。

■変われない日本(いつか来た道)

この風景もまたデジャヴュウだ。敗戦によってこの国は変わったと思ったが、基層においては何も変わってはいなかった。私たち日本人は戦前、特に敗戦までの昭和期は克服すべきものであったはずだ。しかし、原子力政策を見ているとこの国のエリートの精神は、いや頭の構造は何も変わってはいなかった。獲物をひとつ手にすると、更に獲物を獲ようとする――しかも謀略的手法によって。だから破局まで突き進む。旧陸軍の参謀本部高級将校の行跡をひもとけばそれがわかるだろう。それは国家を牛耳っているのは俺たちだという傲慢(ごうまん)な自惚れから出ていた。

太平洋戦争に突き進んで行った原因は、明治維新直後からの日本に胚胎(はいたい)していたことだが、特に昭和軍部の頭の中心を占めていたのは、陸軍の傀儡(かいらい)国家、満州国の保持であった。その補強のため中国北部(北支)に進出し、次いで中国全土に戦争を拡大したが中国人民の頑強な抵抗にあって泥沼に脚をとられ、その打開のために日独伊三国同盟を締結し、ナチスドイツの勢いに乗じアジアの盟主とならんとし(大東亜共栄圏)、結局は目算もなく米英との太平洋戦争に突き進んでいった。煎じつめて言えば金のなる木、満州を謀略によって手に入れ、その権益にしがみつき(「満蒙生命線論」)、結局は見通しのないまま戦略なき無謀な戦争に国民を総動員して行った。揚げ句には、気違い沙汰にも本土決戦だ、一億総玉砕だと高唱し、本気で全国民を道連れにしようとさえした。このようにこの国は方向転換できない、一部の者の権益を保守するため破滅まで行ってしまう国なのだ。

私は、「この国はエリートが滅ぼす国家だ」と、福島第一原発事故の後早くから言ってきているが、政府、財界、学会の原子カムラのエリートをみていると、この思いは残念ながら間違っていない。そこへ国益、国威に最大の価値を置く国権主義、国家主義政権ができた。ただでさえ方向転換のできない国なのに、原子力政策、エネルギー政策は原発事故を受けて転換どころか、従来の路線を強化、推進しようとしている。それは既に首相の積極的な原発輸出外交に表れているが、川内原発、高浜原発の再稼働の動き、そして後述する上関原発建設の動きに表面化している。

しかし、国民もしっかりしなければならない。加藤周一は「私にとっての20世紀」(岩波現代文庫)の中で、日本人は「現在主義」だ、それは「大勢順応主義」につながっていると言っている。過去に拘泥せず未来を煩わずひたすら今だけの利益に関心がいく、という意味だ。それにしても福島第一原発事故はわずか4年前のこと、忘れるには早過ぎる。

■祝島の閧いは終わらない一政府、中国電力の非道

民主党政権下で原発の新増設はしないと決めたとき、最初に浮かんだのは、「これで山口県祝島の人たちは救われる。長い闘いに終止符が打たれる」ということだった。ところがどうだ、地元山口県の安倍政権の登場を機に中国電力は巨大な原発建設計画(137.3万kw 2基)の再スタートをはっきりもくろんでいる。

祝島の島民は島を挙げて32年余も(!)原発建設に強固に反対し続けている。当時50代だった人でも80代となっている。これだけ長期間反対があるにもかかわらず原発建設計画を取りやめようとしない中国電力は非情な会社だ。その人倫に悖(もと)る所業は言語を絶する。

今年の1月下旬、山口県祝島と上関町を訪問した。訪問して、これだけ頑張れるのはしかるべき理由があることがつぶさに感じ取れた。祝島は周囲12kmのハート形をした小さな島で、島全体が山岳で農業に適した平地はほとんどない。しかし瀬戸内の要衝に位置し、目の前の豊かな漁場に恵まれ漁業を営み、また往昔は酒造りの杜氏(とうじ)を多く輩出し、本土に出稼ぎに出ていたとのこと。一方、島内では急斜面をものともせず柑橘類、ビワの栽培をひらいてきた。

瀬戸内の島々はどこも同じだが、歴史に培われたその島特有の高い文化を持っている。祝島は家々をつなぐ練り塀の町としての特有の文化を今に残している。ユネスコの世界遺産に指定されてもいい文化遺産である。島での生活はゆったりとして桃源郷のようであった。小泉八雲が明治の日本を評して「見るもやさしそうな人々が、幸福を祈るがごとく、そろってほほ笑みかけくる世界―あらゆる動きがゆったりと穏やかで、声をひそめて語る世界―昔見た妖精の国」と言っているが(「神々の国の首都」)、この言葉は、そっくり祝島そのものである。

祝島の人々は港のある狭い地域に一塊となって長い歴史を紡いできている。島民全部が一つの家族である。この一体性が崩れては人々は生きて行けない、祝島が祝島でなくなる――そういう世界である。そこにカネと力でもって原発建設という暴風が襲来した。生計、歴史、文化を共有することで命脈を保ってきた島の人たちは、それこそ一致団結して反対してきている、これが祝島の人たちの闘いである。

この人たちに中国電力は金でもって分断する策に出てきた。漁業補償金である。これはどこでも原発建設を進める時の常套(じょうとう)手段だが、最初に漁業補償金で反対派を切り崩す。元の単協祝島漁協は受け取りを拒否していたが、その後山口県下の漁協が一本化され、その県漁協が補償金を受領してしまい、旧祝島漁協分は分配を保留したまま今に至っている。この補償金の取り扱いを巡って、ここにきて島内で少し悶着(もんちゃく)が起こっているようだ。

祝島が祝島であるそのゆえんは島民にある。しかも一体化した島民共同体にありと思うのだが、その島民を金でもって分断する中国電力の所業には激しい憤りを覚える。「お前らは祝島を消すのか」と問いたい。金による人心篭絡(ろうらく)は悪魔の所業である。

その上、中国電力は反対運動弾圧のため、反対運動の島民代表者や支援者にささいなことを理由に大額の損害賠償訴訟まで起こしている。強大な組織権力を持つものが無力な個人に対してのかかるいやがらせ行為は社会正義に反している。これは中国電力が道徳的にも堕落した証左であり、長い目で見れば会社の損失ではないだろうか。

ところで人口3300人の上関町は原発誘致に熱心なようだが、巨大な原発2基から入ってくる莫大(ばくだい)な金(上関町には1984年度以降原発関連交付金として約70億円が支払われている)を、何に使おうとしているのだろうか。財政需要額の小さな町に多額の金が入ってきて町政が、いや町全体が狂うことはないだろうか。老婆心ながら心配になる。

また山口県知事は地元出身の安倍政権にこびているのか、煮え切らない態度を崩さない。このまま生殺し状態を続け、祝島の人たちの自滅を狙っているのか。芦浜原発建設計画を白紙撤回した当時の北川正恭三重県知事の英断に倣ってはどうか。北川知事はJCO臨界事故の直後、2000年の年頭に、その決断をした。

■「国の責任」とは?

鹿児島の川内原発では鹿児島県知事も薩摩川内市長も「国の責任で」という言葉を多用し、経産大臣もまた「国が責任を持つ」と言って、再稼働に突き進んでいる。この「国の責任」という言葉はわかったようで、空を摑(つか)むような実体のない言葉である。現に福島第一原発事故で国は責任を取ったと言えるだろうか。東電も国も誰一人として責任は負っていない。

元水俣市長の吉井正澄さんは水俣病公害事件問題で、こう語っている「水俣病を発生させたチッソに全ての責任があるのは当然だが、根本原因を追究していくとすべて国の責任に突き当たる」と。そして1959年の本州製紙江戸川工場の汚染水排水事故と、同じ年に2千人の水俣市民が起こしたチッソの工場廃水停止要求デモヘの国の対応の違いを述べている。前者は魚が死んで浮いただけだがすぐに操業を停止させた。後者は病人と死人がでていたが操業を続けさせた。この違いは、当時の通産省軽工業局長の裁判での証言に現れている。「日本の経済発展にとって、製紙会社とチッソ水俣工場は貢献度が違う。比較権限の問題だ」と。また「東京周辺で騒ぎが大きくなれば収拾が出来なくなるから操業を停止させた」とも陳述している。

これが「国の責任」の取り方というものだ。原発立地地方の人たちは、責任を国に丸投げせず、また目先の金に惑わずに、周辺自治体の人たち、将来世代のことも考え毅然(きぜん)たる判断をするべきだ。再稼働を承認する前に、故郷を追い出され4年経った今でも将来の見通しもない避難生活を強いられている福島第一原発事故被災者の話を聞き、そして水俣病の公式確認から60年経ってもいまだに水俣市全体が苦しみもがいている水俣公害事件からも学び、その上で子孫のために賢明な判断をされた方がよいだろう。

■東海村JCO臨界事故――脱原発への伏線

私は2011年の東日本大震災時ばかりでなく1999年にも、我がふるさと東海村が吹き飛ぶ恐怖を村長という立場で味わっていた。東海村JCO臨界事故である。この時に、この国は原発を持つ能力、資格があるのか疑念を抱くことになった。私が東海村再興への最初にとった行動は、公害で痛めつけられ、「環境と健康のまちづくり」を掲げて再起を目指していた水俣市訪問であった。そこで出会ったのが吉井水俣市長で、以来患者さんを含め多くの水俣市民と接する中で、効率や利便追求ではなく環境と人間に視点をおいた地域づくりを学んできた(水俣市の当時の総合計画の標語に「不便を受け入れるまちづくり」というものがあった)。

福島原発の事故直後の6月ごろから私は脱原発を表明し始めたが、そのきっかけは当時の経産大臣による定検終了後の玄海原発の安全宣言であった。原発事故から3カ月後で福島の現地ではまだ大混乱状態にあり、事故の実態が何も明らかになっていない時点でのことで呆気(あっけ)に取られた。そこでこの国は原発など持つべきではない、持つ能力もないと確信したのであった。

だが、伏線はJCO臨界事故にあった。事故の究明は、原子力界挙げて全ての責任を原子力産業界の周辺企業JCOに負わせて、検証は早々に打ち切りふたをしてしまった。その後の2007年の中越沖地震でも「止める、冷やす、閉じ込める機能が働いた、日本の原発技術は高い」とばかり高唱し、地震による原発への打撃についてはふたをし、その後原発増強に突き進み、事故の教訓がなにひとつ酌まれることはなかった。2004年のスマトラ沖の海溝型地震からも日本海溝や南海トラフを目の前に控えていながら教訓を得ようともしなかった。福島第一原発事故後も根本は変わってはいない。この国は危ない国である。

■社会的価値、文化的価値が最後を制す

しょせんは原発による恩恵は「一炊の夢」、30年か40年の話である。原発立地自治体の産業は商店を含めて全ての商行為が原発に依存するモノクロ経済社会に化し、自力発展の芽が消えていく。原発が消えれば、周りの自治体と比べても見劣りすることになる。ましてや重大な事故を起こし、核廃棄物処分の見通しもない原発の将来は見えている。早いか遅いかあっても、いずれは原発依存から脱却の道を探らざるを得ないのが立地自治体の宿命である。原発は地域にとって疫病神だと思って間違いない。

私は原子力発祥の地・東海村の村長であったからという訳ではないが、原子力科学研究それ自体を拒否しているわけではない。今日では原子力科学利用の経済規模は原発などのエネルギー分野と医療や新素材開発などの分野の比率は5:5だそうだ、特に高出力の加速器を利用した先端・基礎科学研究分野での成長は目覚ましい。まさしく21世紀の科学だ。ジュネーブにあるEUの円周30kmの巨大な加速器セルン、東海村のJ―PARC(大強度陽子加速器)などがその施設である。欧米の原子力分野の主力はすでにエネルギー開発からこの分野へ移り、日本よりずっと先を進んでいる。

JCO臨界事故の直後から、私はそれまでの原子力施設からの金に依存することから地域自らの力によって持続可能な社会を作ろうと村民に呼び掛けてきた。それを称して「一次方程式的発展の時代は終わった、これからは連立方程式を解ける能力をつけよう」と村民に訴え、2005年J―PARCを核とした「高度科学研究文化都市構想」を立て村の指針とした。更にそれを発展させて2012年に「TOKAIサイエンスタウン構想」として現在に至っている。

構想の主眼は、世界中の科学者、研究者から国際的な研究都市として認知される、そのような社会環境、住環境を整えることである。これは施設からもたらされる固定資産税や電源交付金などの経済的価値を求めるのではなくて、施設や研究機関の持つ社会的価値、文化的価値を重視し、その価値を生かせる地域社会を自らの力でつくろうということである。逆説めいているが、幸いにもJ―PARCは国の研究施設であることから経済的、財政的恩恵はゼロに近い施設である。だが世界の3本指に入る先端基礎科学研究施設であって、社会的、文化的価値は極めて高い。この価値をものにできるかどうか、村民や地域の力量が試される施設である。

■過疎化で地方は消滅しない

ここまで書いてきて、「東海村はいいよ、いろんな施設があって、俺んとこは原発しかないのだ、まちのためには原発が必要なんだ」という大きな声が聞こえてくる。でも福島第一原発事故によって世界は変わった。それ以前とは違うというほかない。「今停止している原発は全部以前どおり動きますか? 動いたとしても遠くない近未来には確実に消えていく代物です。それに今後、恩恵はなく危険だけを共有させられる周辺自治体の住民が立地自治体の意向だけに任せるでしょうか。労せずして金の入る原発依存のシナリオは先が見えているから早くお捨てなさい」と言いたい。

また、過疎化の進行を止めているのは原発が立地しているからだ、という声もあるだろう。だが原発で過疎化を阻止するのにも限界がある。地方の過疎化は人口減少時代にあるこの国では、どこの地域でも急速に進行している。これは大都市を核に経済効率だけを追求した一極集中政策の結果であって、地方である限りどこでも避けられない。過疎化は自然の流れであると割り切るほかはない。考えを変え、逆転の発想に立てば過疎地こそ21世紀資本主義国日本の先頭を走っているだけとも言える。

祝島に行ってわかったことだが、瀬戸内の島々の過疎化は想像を絶する。例えば、祝島はかつて3千人以上の人口だったが現在は500人を切り、高齢化率70%、平均年齢70何歳だそうだ。だが、祝島の人は島の歴史伝統、文化を守ってしたたかに存在し続けている。全国各地の限界集落などと言われているところの人たちも、訪ねてみればいたって元気である。政府や中央の学者は数字をもてあそんで「消滅自治体」などと勝手なことを言っているが、全く失礼な話だ。それは人間不在、没文化の形式論理に過ぎない。

■「地方創生事業」ではない、地方の覚醒だ!

ところが、今の県や市町村はどこもかしこも国の脅かしに屈し、地方創生事業一色になりつつある。アベノミクスと僭称(せんしょう)する新自由主義経済の論理を基に官僚が机上で書いた中央主導の地方改革では、むしろ地方の衰退は加速すると危惧する。ましてや国家財政の効率化、国家統治能力強化などの意図から考えられている道州制の導入などがあってはたまったものではない、地方の破壊、国土の荒廃が一挙に進行することは間違いない。

地方が存続しつづける必須条件は地方の自主性を発揮すること、国家に追随するのではなく地方分権を推進し、住民主体の地方主権を確立することである。山口県周防大島出身で、戦後離島振興法成立に尽力した高名な民俗学者宮本常一は「そこに住んでいるいる人自身が本気にならない限り地域の振興はない」と言っていた。他力依存ではだめだということだ。

かつての高度成長期の考えの延長線で中央や、大企業、原発などに依存し開発・発展、人口増加を望むのはもはやないものねだりである。地方である、そのこと自体の価値に目覚め、人と環境を重視した考えに徹する――このことが地方のあるべき姿であろう。そうであれば都会で無意味な競争に疲れた人たちは、こうした気概ある、志操の高い地方に大いなる魅力を感じて訪ねてくるはずである。いたずらに発展を、成長を望めば墓穴を掘るだけだと言いたい。

経済発展に乗り遅れたと言われる日本海側――例えば島根県、鳥取県を訪れたとき、美しいな、豊かだなと思う人は多いのではないか。太平洋側で発展した地方には古いものより急ごしらえの新しいものが勝ってコンクリートジャングルと化している。高層ビルができたとて、いずれは廃棄物の山ではないか。成長発展の恩恵に浴せなかった地方こそ長年引き継がれた文化が歴史建造物ばかりでなく風景自体に残っている。まるでイングランドの田園風景のようだ。これからの時代、人はこうした地方にこそ本物の価値を見いだして寄ってくるはずである。

福井地裁の大飯原発再稼働差し止め訴訟の、あの判決文は美しい、そして高貴だ。日本国憲法の言葉に匹敵する高貴さだ。日本人でもこういう文章が書けるのだと感動した。原発に依存しないで地方に生きる、生き続けるとは「豊かな国土とそこに根を下ろして生活していることが国富である」、このことに尽きる。

■帝国は必ず滅ぶ、だが地方は残る

原発がなくなれば当座立地自治体は確かに厳しくなる。だが、福島第一原発事故後の国内の状況、世界のエネルギー政策の動向などを考えれば、脱原発依存の道を探って行かざるを得ない時代が来る。一つ言えることは、日本のある地域が消滅する事故を起こしておいても誰も、どの機関も責任は問われていないということだ。原発推進の世界は本質において事故の前と後で変わっていない。だから今後も地域まるごと長期間原発に依存するということが本質的に危険な話なのである。立地自治体が電力供給に果たしてきたことに誇りがあるなら原発再稼働を求めるだけでなく、エネルギー転換の動きや原発以後の社会をも見据え、政府に対して別の観点からの支援要請を考える時期に来ているのではなかろうか。

話が横道にそれるが、先の大戦の戦争責任問題も日本人は「戦後復興」の大合唱の中で消し去り、戦争指導者の責任を問うことをしなかった。その問題をないがしろにしたことが今日でも尾を引いている。今年は戦後70年である、「過去に目を閉ざす者は、現在についても盲目となる」とのワイツゼッカー元ドイツ大統領の残した言葉が再び脚光を浴びているが、中国、韓国はじめアジア諸国に多大な損害を与えた私たち日本人としても、我がこととして受け止める、その知性が求められている。

原発についても同じだ。事故によって生じた「フクシマ」という人類に問いかけられた大きな命題に目を閉ざしてはならない。福島第一原発事故の後で原発を経済的観点からのみ議論するのでは、2022年までに原発全廃を決断したドイツの論理と比べ痛く寂しい。原発依存か、脱原発かの議論は人権尊重の論理や地方主権の観点をも入れて深めていく必要があろう。

歴史上「帝国」と称したもので滅ばなかったものはない。歴史の定理である。近くは大日本帝国、ヒトラーのドイツ第三帝国、オスマン帝国、遠くはペルシャ帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国など枚挙に暇がない。巨大システムは帝国と同じくもろいものだ、原発という巨大システムももろい代物である。GEやウェスティングハウスの原子力部門が日本企業の傘下に入り、ドイツのシーメンスが原子力事業から撤退し、EU最大の電力会社E・ON(エーオン)が主力を再生エネルギー事業に転換したことなどからしても、そう言えないだろうか。

帝国は必ず滅ぶ。だが、その支配下にあった地方は滅ぶことなく現在につながり、未来につながっていく。あまりにも巨大なシステムであり、人類に対し危険性の高い原発は消えていく必然性があるが、歴史と伝統に培われた地域と英知を働かせることができる住民がいる限り地方は永遠である。

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