原発のない社会をめざして 原発を追い40年 まだ戦わなきゃ/樋口健二 フォトジャーナリスト

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原発を追い40年 まだ戦わなきゃ/樋口健二 フォトジャーナリスト

【原発を追い40年 まだ戦わなきゃ/樋口健二 フォトジャーナリスト】
東京新聞 2013年12月15日

福島第一原発事故の何十年も前から、原発の危うさを訴え続けてきたフォトジャーナリスト樋口健二さん(76)。放射能汚染と隣り合わせの原発内部で働く作業員の姿をとらえた作品群は、3・11以後、国内外で高い注目を浴びた。

長年、人々が目を向けることのなかった原発労働者をテーマにしてきたのは、過酷な労働を強いられた自身の体験を重ね合わせているからだという。 “世の中の構造は変わらない。それなら僕は似た境遇の仲間たちの代弁をするしかないと思った。”

──3・11以降、新聞や雑誌の取材、講演依頼が殺到しました。

1977年、日本原子力発電の敦賀原発1号機(福井県敦賀市)の中に入ることができた。担当者が「樋口さん、うちは安全第一でやってます」と言うから、「じゃあその安全を撮らせたらどうですか」と迫ったら撮影の許可がおりた。原発の社員2人と一緒に歩きながら1時間見学した。宇宙服のような格好で働く作業員の姿を写真にとらえました。ちょうど原発は定期検査中で、耳をつんざくすさまじい音、鉄粉のにおいがした。

後日、その原発の中で働いていた作業員から話を聞いた。放射能を含んだ水が流れるパイプの腐食がひどく、ハンマーでたたいて穴を直していたと話していた。そんな手作業による補修を日常的にやっている。原発は現代科学の結晶というイメージとは随分違っていると感じましたね。

コンピューターで制御されているという説明だったけど、実際には労働者の手作業なくして原発は動かない。それを写真で表現した。3・11後、原発の安全性への関心が急速に高まり、内部の実態をとらえた僕の写真に注目が集まるようになった。

今回、米紙ワシントン・ポストをはじめ、内外の70社近い新聞雑誌が取材にきました。日本の女性誌まで。講演は137回やりました。こんなに騒がれたことは今までになかった。うれしいのは僕が注目されるより、被ばく労働という問題が注目されたことです。放射能汚染の危険を冒して原発内部で働く作業員の実態を少しでも知ってもらえた。

──原発労働者を撮る前は何を撮っていたのですか。

四日市公害の問題を追っていた。24時間操業の石油化学コンビナートは夜になると煙突から吐き出される亜硫酸ガスが肉眼で見えるんですよ。漆黒の中で白いガスがバーッと。近くへ行けばシューッという音が聞こえる。だんだん、「日本はやがてつぶれるぞ」と考えるようになった。だって住民を犠牲にして金もうけするなんてもってのほかだと思ってたから。

──経済優先の陰で苦しむ人に目を向けようと思ったのはなぜ。

東京で生まれ育っていたらそういう視点はなかったと思う。僕は信州の標高1000メートルの地で生まれ育ち、貧しかったんです。高校を卒業した56年に農家を継ぎ、一生懸命高原野菜を作った。でも、売り上げから野菜を運ぶ費用や肥料代を引かれて毎年赤字。一生懸命やっているのに、何なんだこれって。流通機構の中で誰かがもうけ、農家を食い物にしているんじゃないかと思った。

農閑期の冬は東京へ出てきて、のり問屋で働いた。農業は12時間労働だったけど、東京では朝から夜中まで18時間働かされた。それを11月から3月まで5カ月。本当につらかった。底辺の労働者ってここまでばかにされるんだと。こんなに働いて、飯が食えないっておかしいじゃないかと思った。

長野の田畑や家を売り払って東京へ出た。川崎市の製鋼会社の工員になって、もう食いっぱぐれないだろうと思った。そんなとき、世界的な報道写真家のロバート・キャパ展が銀座で開かれていた。写真に興味はなかったけど友達に誘われて仕方なく行った。でも写真を見たら、カメラで戦争を撮りまくったこの男は何者だ、と衝撃なんてもんじゃなくてね。言葉はいらない、絵で分かる。写真って国際言語じゃないかと一目で分かった。

戦争で傷つき、苦しんで逃げまどう老人、女性、子ども。あらゆるところを撮っている。初めて身震いがしたよ。外に出たとき、おれ写真家になろうって決めた。それが24歳の秋。翌春、会社をやめて写真学校へ行った。

卒業して現場に立ったときに、やっぱり農家のせがれだということが原点だった。工場で働いた経験も大きかった。貧しくて大学には行けなかった。原発の中で働いているのは農民、漁民、炭鉱労働者…。そういう人たちを使っているのが大学を出た連中。それなら僕は似た境遇の仲間たちの代弁をするしかないと思った。

敦賀原発の取材以降も労働者を追い続けました。特に、敦賀原発内での作業で被ばくしたとして日本原子力発電を訴えた岩佐嘉寿幸さん(故人)の大阪の家には何度も足を運び、岩佐さんの裁判を91年に最高裁で敗訴が確定するまでずっと見続けた。途中働けなくなった岩佐さんのために講演会を開いてカンパを集めるなどしましたね。

──原発労働者の被ばくは認められていません。

今まで、原発労働者が作業中に被ばくしたとして電力会社を訴えた裁判で、岩佐さんも含め原告が勝ったことはありません。でも、東日本大震災の後、国は原発労働による被ばくで白血病になったとして過去に複数の作業員が労災認定されていたことを初めて明かしました。現在は12人が労災認定されています。

何十万人という原発労働者の数からいえば、12例というのは少ない。でも、僕が原発労働者を追い続けて40年、真っ暗闇だったトンネルで、やっと1本のろうそくに灯がともった感じ。少しずつ歴史が変わろうとしています。

──写真家として目的を達成したのでは。

いやまだまだです。確かに3・11の大惨事があって国民の意識は変わった。原発の安全神話がどれほどいいかげんなものだったかを人はわずかの期間は思い知ったでしょう。しかし人は簡単に忘れるんです。

99年、茨城県東海村のJCO臨界事故で多くの作業員が被ばくし、2人が亡くなったのに何も変わらなかったじゃないですか。3・11であれだけの惨事に見舞われて、やっと少し変わったぐらい。まだ原子力の平和利用は必要だという考えの人たちは世の中にいっぱいいますよ。

まだまだ戦わなきゃ。原発内部で多くの作業員が働いている問題も含め、マスコミが取り上げ続けてくれないと元に戻っちゃいますよ。現に今、戻りつつあるじゃないですか。日本がだめなら原発を海外に売っちゃおうって。

何兆円の金額でベトナム、トルコに、そういうふうに動きだしている。外国に売るということは一緒に原発内部で働く作業員も増やしていくだけの話。結局、昔も今も何も変わっていませんよ。


[ひぐち・けんじ]

1937(昭和12)年長野県富士見町生まれ。東京綜合写真専門学校を卒業後、同校助手を経てフリーのフォトジャーナリストに。60年代から四日市公害の現場を追い続け、69年に写真展「白い霧とのたたかい」を開く。

その後、原子力発電所内部で働く作業員を精力的に取材し始め、87年、世界核写真ギルド展に「原発」を出展し、ベルリンなどで公開されて反響を呼んだ。2001年、ドイツの反核団体から「核のない未来賞」を受けた。

著書は「これが原発だ─カメラがとらえた被曝者」(岩波ジュニア新書)「闇に消される原発被曝者」(八月書館)などのほか、写真集が多数ある。

◆インタビューを終えて

長い写真家生活で、樋口さんがファインダーからのぞいた何百人もの被写体。そこから透けて見えたのは組織に従順な日本人の姿だった。

原発労働者たちは自らの過酷な労働実態を世に問おうともせず、黙々と任務をこなした。電力会社の社員は本音を語ろうとせず、こう言った。「樋口さんたちはフリーでやれるからいいけど宮仕えはそうはいかない」

放射能の危険性など当事者たちが一番知っているはずのことに目を背け、口をふさぐ。問題は先送りされ、リスクは高まる。「日本人はなかなか社会を変えられない」。一人で戦ってきた樋口さんの苦言は重い。


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